元ネタは これ ですか...
言わんとすることは分からない訳じゃありませんが、 本当にそんなに複雑な問題なのかな?という気もしますね。 そもそも、「NEET」なるものが本当に現代的な問題なのかというところに疑問があります。 何だか造語に踊らされているような。
これが確かに顕著に増えているという信頼できるデータはあるのでしょうか。 言葉を造って、煽られた人々のおかげで、 市場が増えて(実際、書籍とかいっぱい出版されているわけでしょ)、 政府が対策と称して予算を計上する根拠が生み出されて、 世の中的には万歳なのかもしれないけれど、 個人的にはあんまり面白くありません。
昔からこういう人たちは存在していたではありませんか。 例えば、俗に「家事手伝い」と呼ばれる人々とか。 「NEET」の定義には合わないのかもしれませんけど、 K大には昔から何もせずにひとすら留年を繰り返している学生もたくさんいたし、 現状を正しく認識していなかっただけってオチだったりしませんかね。 そうだとすると、世の中には一定の割合でそういう人間が存在するというだけの話になってしまいます。
仮に、「NEET」が増えているんだとしましょう。 この種の話をするとき、いつも私が主張していることなので、 すでに知っている方も多いでしょうが、 それって悪いことなんですか? 労働の義務とかいう建前を持ち出せば、 法的に望ましくないのでしょう。 でも、だから何?ってのが私の考え方。
だって、「NEET」こそ、本来人間が目指していたはずの目標だから。 人間がつまらないことに労力を割かない、 働かなくても楽しく暮らせる、 それこそが何千年に渡る人間の歴史で常に追いかけてきた頂点ではなかったのですか。 技術は人間の生活を楽にするために編みだされてきました。 苦労するのが好きなら、掃除機も洗濯機も電子レンジも必要ないわけです。 工場の自動化によって、人間は単純労働からかなり解放され、 交通システムの発達によって、人間はてくてく何時間も歩かなくていい訳です。
そもそも、日本人は勤労を美徳する文化があるけれど、 世界全般に通用する概念とは言えません。 特に、イスラム教だと働くことは罪悪だったりします。 働かなくていいなら、働かない方がいいって考え方だってあって、 一方的に決めつけることは出来ないのです。
問題になるとすれば、 今は働かなくても済むかもしれないが、 遅かれ早かれ、それでは困った事態が訪れることが目に見えている、 という場合でしょう。 直感的には、今の世界では、まだ全く働かないで人生を全うするのは、 少々難しいようだという気がします。 しかし、本当にそうかと聞かれると、 はっきりとは分かりません。 少なくとも、非労働人口がある割合以下なら、大丈夫そうですね。 でもどれぐらいがクリティカルなのですかね。 経済学者なら分かるのかもしれませんが、 経済学者は適当なことを言って、当たったり当たらなかったりするだけの商売なので、 あんまり頼りにはならないような(暴言失礼)。
個人的には、 自分が「NEET」になることを許される状況なら、 是非なってみたいんだけどなあ。
s/NEAT/NEET/g
チェーホフの芝居には働かなくていい身分の人たちがたくさん出てきますが、みんな「退屈だ」
(続き)「退屈だ」としきりに言っているので、実際なってみたらそういうものかもしれません。
Thanks! >odz
私がチェーホフを論ずるのは勇み足になってしまいますので避けますが、ある心理学の実験で、豪邸で全部世話してくれるから何もせずに暮らさせる、それでどれだけ耐えられるか調べるというのがありました。みんな一週間と持たなかったというのが結果です。<br>でもこれは違うと思うんですね。何もしないということと、NEETであることとは同じじゃないんです。授業に行かない学生は事実上NEETと違わないと思うのですが、私もそういうことをやっていた時期があって、それはそれで楽しかったですよ。だって、暇があれば、やりたいことなんて、いくらでもありますから。
NEETの是非は私の論点でもないので…<br><br>私の学生時代も似たようなものでしたが、ちょっと質問です。okujiさんがやってたこと、やりたいことから、何かを生産したり創造したり、あるいは自分の知識や技術や体力を向上させたりするものを除きます。その残ったものを、一生続けてゆけますか? 消費だけの人生ってのは短期的にはともかく、一生ものとしてはかなり耐え難いものになるんじゃないかという気がします。<br><br>でも企業としては、マスには労働時間以外は消費だけしておいてもらう方が短期的には都合が良いんで、実際そういうプレッシャーがとても強いのが今の社会だと思います。で、生活の中の創造としての芸術の代替物として、消費可能な娯楽というものが提供されて、「芸術」というのは一部の求道者みたいな芸術家が他のいろいろなことを犠牲にして追求するものみたいに思われてるんじゃないか。ってのが私の元のエントリの意図です。
耐え難いというより、死ぬでしょうね。精神的には。でも他の人がどうなのかは分からないし、自分の価値観を押しつけたくはないですね。それでも十分楽しいと本人が感じるなら、それはそれで結構だと思います。そういう人と友達になりたいかと言うと、また別問題ですが。<br><br>芸術については、随分前に書いた気がするのですが、厳密な定義を求めるのは無意味であるというのが私の意見です。会話が成立しないほどにかけ離れると困りますが、そこから先は個々の人間が勝手に判断すればいいことだと思ってます。<br><br>shiroさんの文章を見て、少し感じたことは、芸術に結びつけて考えるから話がややこしくなっているのであって、本質は楽しみをいかにして見付けるのか、ということではないでしょうか。やってみて初めて分かる楽しみもあるということなら同意します。でもそれが「だからやらなければならない」とか「それが芸術である」という話になると、納得いたしかねます。
ニートと重労働の中間的な(多分「普通」の)仕事を得るのが昔の世代と比べて難しくなっていると感じています。重労働がイヤならニートになる、ニートをやめるには重労働に耐える必要があるという状況は辛いです。<br>(具体的な証拠があるわけではないですし、僕は重労働の文化の中の不良社員ですが…)
そうかなあ。地元の友達には「重労働」とは言えない職についている人間がいっぱいいるけどなあ。本来質の求められる専門職に就いて、求められる質が提供できないから、量でカバーしているって話でなくって?量しか求められない環境で、量で頑張るしかないというなら、昔と大して変わってないだけかと。昔の人が今より重労働してなかったとは思えないなあ。
いや〜、私のポイントは、そこで「芸術」と聞いてややこしいと思ってしまうのが誤解じゃないかな〜ってとこにあるんです。でも岡本太郎が50年前、三木清が70年前にそういうことを書いて、でも未だにそれが一般的になっていないのは、それなりの理由があるのかもしれません。
追加。上のコメントはポイントの半分で、残りの半分は、「『創造的』というのは『生活の中に楽しみを見つける』ということそのものなのに、メディアが作る『創造的な仕事』のイメージから何か『創造』をおおげさなことと考えてしまって、自分には出来ないとあきらめてしまっているとすれば不幸じゃないか」ってことです。
>勤労を美徳<br>ウチダ先生が「労働」として言及している場合はおそらく,マルクス的な労働<br>概念だと思いますので,「労働=あらゆる生産活動」と解釈するべきだと思い<br>ます.つまり,お金を稼ぐための活動だけが「労働」ではなくて,趣味でプロ<br>グラムを書くとか,絵を書くとか,何でも全て「労働」.<br>この解釈を採用すると,「とりあえず働け」というのは,「とりあえず何かア<br>ウトプットを出せ.それで君を測るから」という意味になりますので,「勤労<br>を美徳」とする日本的価値観という反論はあたらないのではないかと思います.<br>ただまあ,今回の場合,憲法の勤労の義務なんてものまで持ち出してきている<br>ので,マルクス的解釈でいいのかなあ,という疑問はないわけではないですが.
この件に関してはokujiさんに近い意見です。本当に何もしない人もいますが、なにかしらしている人もNEETと数えられて数字が多く見えるだけと思います。ただ、そのなにかしらが経営者側の定規では「なにかしている」とは判断されていません。また、彼等はそれをどうすれば「なにかしている」と判断されるのか分らないそうです。既存の職に就かないといけないと思い込んでます。本当に何もしない人については改善される期待が持てませんが、後者は改善される期待があるので一緒にして考えないのがよいのではないかと思います。「そんなのを辞めちまって、職を探せ」と言うよりは、「経営者になる勉強をして、それを職にしろ」の方がまだ改善されるのではないかと考えます。shiroさんの翻訳記事などを読ませて頂きましたが、経営者側へ「芸術だから」を説明するよりも、NEETへ「経営者になるためにはを具体的な手順で導く」のがより沿った行動なのではないかと感じました。
えーっと、私はNEETを減らすとかいう話も、「経営者側へ『芸術だから』を説明する」という話も一切してないです。quuxさんのはokujiさんのエントリへのコメントと思いますが、念のため。