2007-08-26

_ 人生とは大海を泳ぐが如し

最近いろいろ考えているネタはたくさんあるのだが、 どうも書く時間や気力が足らなくて、 思うように書けなくなってしまっている。 事あるごとに知人に言っているように、 私は昔から脳味噌レコーダ(頭の中で考えていることがそのまま記録される装置)が欲しいと思っているのだが、 そんな便利なものは残念ながら現時点では存在しないので、 ちまちま小出しにしていく他ないわけなのだが...

それはともかくとして、少し前にぼんやり考えていた哲学にこういうものがある。 人間が、一日一日の中でやれることには相当な限りがある。 しかしそれは同時に、積もり積もって、やがて大きな結果として残り、 人生というものが形作られていく。

これは、比喩を使えば、例えば、山登りのようなものである。 比較的小さな山であっても、すごい数の歩数が必要になる。 一般的に、人間の歩幅は身長から1mを差し引いた程度と言われている。 仮に、日本人の平均的身長164cmで64cm程度だと考えると、 40km程度の登山でも、62500歩も必要である。 このように、一歩一歩はとても小さいわけだが、 しかしその積み重なりが遂に登攀を可能にしてしまうのであるから、 馬鹿にできたものはない。 もしも、一歩が小さいからといって歩くことを放棄すれば、永遠に山頂に辿り着くことはあり得ない。

しかし、山登りにおいては、どの山に登るかという問題を別にすれば、 山頂という比較的明確な目標点が存在するという意味において、 実は人生にはそれほど似ていない。 それよりもむしろ、海を泳ぐことの方が似ているという気がする。 しかも、その目標とは、ある島や岩礁などという、一点に等しい存在ではなく、 むしろ「あっちの方」のような漠然としたものに近い。

登山においては、風雪のような障害はあるものの、大地は登山に費される時間に対して、ほぼ不変である。 しかし、海は常に状態を変化させる。 潮の流れは変化し、穏やかになっては荒れ模様が訪れ、 泳いでいないと、いや、泳いだとしても、潮の流れによって、強制的に押し流されていく。 しかし、だからと言って、泳ぐことが無意味なのではない。 泳ぐ力が方向性を決定し、先を時折見渡し、予測し、障害をできるだけ迂回したり、 力任せに乗り切りながら、今後の行き先を運命づけていくのである。 これはまさに人生と同様なのである。

まず、目標、方向を見出さねばならない。 これは誰に決められたものでもない。 他の人間に指し示され、強要させられる場面はあるだろうが、 つまるところは自分が決めるしかない。 ここで決めなかった者は、ただ潮の思うがままに漂流していくのみである。

もちろん、頑張って泳いだとしても、辿り着けるという保証は何もない。 それどころか、出発点からそっちに近づくという保証さえない。 しかも、困難が訪れ、途中で目標を考え直したり、 設定し直す必要に駆られることもある。

私の考えは、それでも泳ぐ価値はあるというものだ。 目標を見失い、ただ漂い、最後には溺れてしまうよりは、 少しでも結果が残せれば、それでいい。 自分がやるだけのことはやったという思いが残れば、それでいい。 みな、理想をもち、みな、違う理想を抱いている。 決して、個人が究極的な目標に辿り着けることはないだろう。 でも、そこに少しでも近づく努力を惜しまないことこそ、人生の意義ではないか。 それを自己満足と斬り捨てるのは簡単だが、 自己満足を肯定的に捉えて何が悪いのか。

閑話休題。 昔こういう計算をしたことがある。 人間は、大人になってからは、おおよそ7時間程度眠る人が多いだろう。 眠る前や起きた後、しばらく頭がぼけていて、まともには働かない時間がある。 さらに、歯を研くとか、食べ物を咀嚼するとか、便所に行くとか、 重要であるが、それ自体はあまり意味がない活動に要される時間もある。 そう考えると、一日でまともに活動できる時間はせいぜい12時間程度である。

仕事をしている人間であれば、出勤日は7、8時間ぐらいは仕事に費されるだろう。 ということは、もう残りは4、5時間程度なのである。 一日は24時間あるかもしれないが、仕事や睡眠やその他日常的なもろもろに費される時間を差し引くと、一日はこんな程度なのだ。

そこから何が導き出されるか、というと、それはもう人それぞれで考えてください、 というしかなくなる。 私の場合、活動できる時間がこれほど仕事に使われる以上、 就職先の勤務が自分の人生にとって、どんな意味があるのかを深く考える。 そこで、自分の目標に近づくことができないなら、 それは人生の大いなる無駄というものだ。 さらに、その残りについても、 当然私もただの人間だから、さっぱり意味をなさないことにもだらだら使ってしまっているが、 それでも馬鹿馬鹿しく思われるようなことには、なるべく使いたくない。 だから、私はTVを滅多に見ないし(ほとんどの番組は私には価値がない)、 ゲームも随分前に足を洗ってしまった(どうプレイするべきか、他人が決定しまっていることをやっても、ひどくつまらないし、何が得られるのか、さっぱりわからない)。

何をどう設定し、何に価値を感じるかは人それぞれの問題である。 他人がどう考えようが、私の邪魔にならない限り、 私からは一切干渉したいとは思わない。 だけれど、私の密かな願望は、他の人もこういう大局的なことをたまには思い起こしてみて、本当に自分がどこに向かっているのか、確認してくれたらいいのに、ということである。

ちなみに、ここでは一人きりの人生のような視点で書いてしまったが、 他人との関連を中心においた、別の見方も重要だと思う。 が、紙面が足りなくなってきたので、また今後書く。

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